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ストラヴィンスキー論
書きたいのは、僕の「ストラヴィンスキー論」ではなくて、
秋山邦晴さんの「ストラヴィンスキー論」を読んでの感想(めいたもの)。

秋山さんの『現代音楽をどう聴くか』を買ったのは、
「イアニス・クセナキス 数学的論理学の思想」を読みたかったからなのだけれど、
僕が一番おもしろいと感じたのは、実は「ストラヴィンスキー論」だったので。

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僕は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「春の祭典」が、
とっても好きなのだけれど、バレエの方は意図的に見ていない。
バレエの音楽なんだから、バレエを見ないと本来の意図がつかめないのでは?
という思いもあるけれど、それよりも、純粋な音楽としての魅力を奪われるのが恐いから。

で、僕がおもしろかったのは、秋山さんが、「ペトルーシュカ」と「春の祭典」、
特に「春の祭典」が、ストラヴィンスキーの最高傑作とし、
その最大の魅力を"身振りの音楽"として説明されているところで、
それは、バレエ音楽であろうがなかろうが、彼の本質的なものであるという。



 
秋山さんは、ストラヴィンスキーの『自伝』から引用し、自説を展開する。
(...前略)それはストラヴィンスキー自身の<音>についての最初の、そしてもっとも鮮烈な記憶である。かれが幼かった頃、故国ロシアのある田舎でひと夏を過ごしたことがあった。そのとき、ひとりの唖(言葉を話すことのできない)の百姓の老人に出会ったのである。かれは他の子供たちとおなじように恐怖を感じた。ところが、この唖の老人は子供たちを面白がらせようと、歌いはじめたのだという。それはこの老人が発音できるたった二つのシラブル(音節)からなる歌だった。唖の老人は、すごい速さで、このふたつのシラブルをかわるがわる歌う。そしてこの奇妙な歌を、腋(わき)の下から発する「かなり怪しからぬ、しかし頗(すこぶ)るリズミックな、そして美化していえば<乳母の接吻>といえるような連続音を発して」伴奏したのである。つまり腋の下に手を挟んで鳴らすあの少々下品な音響で、伴奏しながら、ふしぎな歌をうたったというわけである。これは幼いストラヴィンスキーにとって、愉快な、そして強烈な、動きと音の印象であった。その後、家にかえってから、しばしば熱心にそれを真似した。ところがこの音楽行為は家の者から、猥(みだ)らな、下品なことだとして禁じられてしまったという。そこで二つのシラブルだけを口ずさんでみるのだが、あの猥らな伴奏をのぞいてしまうと、それはもはや何んの興味もないものになっていた。(...後略) 
※括弧内は僕が追加したものです。
秋山さんは、この体験が彼の音楽に多大な影響を与えていると考える。

僕は、どちらかというと理論の側から「春の祭典」を聴いていたので、
(だからブーレーズ指揮/クリーヴランド管が好きだったりする)
秋山さんの見解、そしてストラヴィンスキーの原体験がすごく興味深い。

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理論的に聴くというのは嘘だな(笑)、でもあの感覚はなんだろう。
ものすごく知的で、恐ろしく血的というか、
ものすごく暴力的なのに、恐ろしく論理的なというか。

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僕が、「ペトルーシュカ」や「春の祭典」から受ける興奮と、
僕が、池田亮司の『0℃』から受ける興奮が同質なものである。
このことを数年間ずっと興味深く思ってきた。
そして、その答えから一歩近づいたような、遠のいたような、
そんな気がしている今日この頃。
by smpinkd | 2006-02-10 22:36 | 音楽
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